ヨシジのブログ

オーナーシップという生き方をめざして!喘息持ち頭痛持ち高血圧糖尿病の妻とともに、アトピー性皮膚炎・食物アレルギーの三兄弟を育てる男のブログ

第3章:男性は女性を愛し得るか

第3章 男性は女性を愛し得るか

 

〈短期間の間に盲目的状態で、生涯の伴侶を選ぶ恋愛〉

  結婚式の披露宴でよく語られる言葉の中に、「結婚前は両目を開けて相手を見、結婚してからは片目をつぶって相手を見なさい」というものがあります。

 恋のとりこになっている時は、相手のすべてが素晴らしく見えるが、結婚してみると、それまで気が付かなかった短所が見えてきて耐えられなくなることが多いからという経験に基づく忠告です。

 ともあれ、私たちはおそよ人生の三分の二を自分の判断によって選んだ異性と共に過ごさなければなりません。しかもその異性は、自分の人生ばかりか子孫の人生にも決定的な影響を与えるわけですから、事は重大です。

 世界一の果報者になるか、一生の不作と身の不運を嘆くか、そのどちらかになるかを決めるのが、わずか数ヶ月から数年の間の、自分の主観という限られた条件の中からであり、ともすれば、あばたもえくぼといった盲目的状態の中で決定されるのです。

 冷静に考えてみると、これは実に恐ろしいことで、生涯の伴侶を選ぶという重大な決定を自分で下せるほど、私たちは異性を知っているでしょうか。気心の知れた親友ですら数人もいないのに、生い立ちや性格、趣味、価値観まで深く知っているという異性が一体何人いるでしょうか。そのほとんど皆無の中から、自分の好みを唯一の判断材料にして一人を選ぶのですから、まさに宝くじのようなもの。

 最近、インターネットを介して自分にふさわしい相手を探そうという動きがあり、しかもそれがビジネスとして成り立つようになってきています。出会いのチャンスが意外と少ない青年男女にとって、お見合いは合理的なシステムとして見直され、地方自治体主催の合コンさえある時代です。

 離婚率が高くなり、離婚している人が身近にいるこの頃、「恋愛こそすべて」と言う人はさすがに少なくなっているようです。日本人もそれだけ大人になったのか、それとも醒めてきて愛を信じなくなったのか。いずれにせよ純愛を主題とした小説は、はやらなくなってしまいました。

 

 〈結婚の動機は、男性と女性では根本的に違っている〉

  結婚の動機を挙げてみると、「一緒に何かをやりたい」、「一人では淋しい」、「結婚していたほうが社会的信用があるから」、「適齢期もきたし世間体もあるから」、「自分を信じてくれるやさしい女性が欲しい」、「暖かい家庭を作りたい」、「食事や身の回りの世話をしてくれる女性が欲しい」、「子供が欲しい」、「自由にセックスができる」等と、実に様々なものがあります。

 しかも、結婚の動機の根底に、男性の場合は性欲を中心にした願望があり、女性の場合は、愛情と子供への願望があるという大きな違いがあり、このことが分かっていないために生じている悲劇も相当なものです。

 私自身、結婚については、やさしい女性や暖かい家庭というイメージがありましたが、

それ以上に、セックスへの期待のほうが大きく、週刊誌や映画で表現されている、素晴らしい快楽の世界を早く体験してみたい、セックスを体験して早く大人になりたい、女性であれば誰でもいいという思いが強かったことも事実です。

 若い男性の場合、頭の中はセックスのことで一杯ですから、女性も同じようにセックスを願っているに違いないと思い込んでいます。そして、少しでも相手の女性が自分に好意を持っていると思えると、なんとかチャンスを作って自分の欲望を満たしたいと、そのための演出プランを考えます。

 これは男性にとってはごく当然のことですが、女性にとってはかなりショックなことで

あり、男性もまた結婚してみて女性の愛情願望を知って驚くといったことが実際に多いのです。

 性的欲求や愛情欲求を持つのはごく自然のことですが、結婚をより意義あるもの、人間らしいものに高めるために、共通の価値観や目的を持って、その目的を達成するために結婚するというふうになりたいものです。

 男性が女性に求めるもう一つのものは美しさです。若い時は私も美しい女性、かわいい女性に単純にあこがれていました。しかし、自分が年を取っていくにつれて、女性への願望が大きく変わっていくのに、自分でも驚きました。結婚後の人生は、私が考えるほど単純なものではないということが後で分かったのです。

 「生活」という言葉は、ヌカミソ臭いもののように思われ、若い女性から嫌われるかも知れません。しかし「生活」こそ二人の愛を現実的でしかも堅固なものにするための重要な場所です。「美しさ」はそうした生活の中で本物であるかどうかが試されます。

 結婚生活では姿かたちの美しさよりは、丈夫な赤ん坊を生むことのできる「健康」と、子供に正しい教育を施すことのできる「賢さ」、家計をやりくりできる「経済力」、安い材料でおいしく栄養ある食事を作れる「料理の腕前」、そして根底に、夫や子供と楽しい家庭を築いていくための「思いやり」と「忍耐」が必要とされます。これらの条件が満たされた人こそ、「美しい人」「かわいい人」と言えるのではないでしょうか。

 

〈利己的欲望で相手を私物化し、それを愛と呼ぶ男の嘘〉

  よく「恋愛と結婚は別」という言葉が使われますが、五十歳、六十歳の年配者が若い男女に悔恨の情を込めて教訓として語るのなら別ですが、当事者である若い男女が初めからそう思っているとしたら、それは相手を遊びの道具としか見ていないことであり、結局一人の異性を犠牲にする偽りの愛、つまりエゴイズムの発露でしかないということです。
 「形式としての結婚にこだわるのはかえって不純。二人を支えているのは純粋な愛情です」

 これもまた典型的な、同棲を正当化するためのセリフですが、不見識な男性なら誰もが暗黙のうちに了解する歯の浮くようなダマシのセリフなのです。

 そもそも本当に相手の女性を愛しているのでしたら、結婚して家庭を築き、愛の結晶としての二人の子供を作ろうとする強い意志が先行しているのが自然です。古くさいと言われるかもしれませんが、相手の両親にも、また自分の両親にも周囲の関係者全部に報告してできるだけ多くの人々から祝福されたいと願うものであり、それが真実に愛する者の義務でもあります。

 女性にとっては愛も結婚も、人生の重大事件ですが、男性にとっては仕事があり、社会があり、愛や結婚はそれらの無数の対象の中の”ワン、オブ、ゼム”と考える傾向が強いわけです。

 今日の、性的に頽廃した文化の洗礼を受けている男性が、本質的に女性を愛し得るかというと、これははなはだ疑問ではないでしょうか。社会の風潮を見るかぎり、すべての男性は本質故に好色であり、愛情よりも女性の肉体にしか興味を持っていないのではないかとも思えるほどの現状です。

 もし仮に「愛している」は「君の肉体に興味をもっている」であり、「結婚する」ことは「ただでセックスできるようになる」ことを意味するとしたら、こういう若い男女によってつくられる社会には未来はありません。

 よこしまな男性にとっての恋愛感構は、征服欲の建長線上にあると考えた方が理解しやすく、素晴らしい女性を征服するプロセスを楽しむことが目当てのようです。そうした男性にとって女性を征服するとは、その肉体を自分の思い通りにするということを意味しており、本当の愛とは正反対なものなのです。つまり「彼女は僕のものだ」と語れるようになることが目当てで、利己的な欲望のもとに相手を私物化する蛮行を「愛」と呼んでごまかしているにすぎません。その証拠に、いったん性的な関係を持ってしまうと、男性は急激に相手への精熟を失っていくというケースがほとんどで、やがては嫌悪感さえ持ち、その女性から離れていくのが常です。ともかくこれが俗に「釣った魚に餌はやらない」という男性意識の舞台裏なのです。

 

〈男性は一人の女性への愛を、生涯保つことができるか〉

 若い女性にとっての最大の不安は、その男性が自分への愛を生涯保ってくれるだろうかということではないでしょうか。自分より美しく魅力的な女性が現れたらこの愛はどうなるだろうか。若い時は、若いということだけで相手を引きつけることができるが、三十代、四十代となった時、若い女性に心を奪われたりしないだろうかというような不安です。

 これはお互いに言えることですが、姿かたちや財産があるからというような条件があるがゆえの好ましいという思いは、その条件がなくなれば好ましくないというように変わってしまうわけであり、それは愛でも何でもないということになります。

 一般約に男性が女性を好ましいと思うのは、ほとんどがその姿かたちや女性であるという点であり、「この女性を大切にしてあげなければいけない」「この人を幸福にしてあげたい」と思うのは、付き合ってからかなり後になってからではないでしょうか。そもそも女性への愛情を真剣に考える男性は、一割にも達しないのかも知れません。

 よく浮気は男の甲斐性等と言われるように、男性は多情多感な存在であり、恋人と歩いていても、前から女性が歩いてくると、きれいな人だなと見とれてしまうようなところがあります。魅力ある人に心引かれること自体悪いことではありませんが、相手の心を自分に引きつけたい、男と女としての付き合いをしたいという思いが生じてくる危険性はないとは言えません。

 さらに自分は家庭という安定した場を持ちながら、あえて若い女性との不倫や危険性を密かに楽しみたいというエゴを、男性は持っているということを女性はよくよく知っておく必要があります。

 女性への思いが、自分の好みからくる感情や性欲だったら、その思いは愛ではなく感情であり、一時的なものにしかすぎません。しかし、相手への幸福を願う誠意と真心であるなら、その思いは生涯保つことができるはずです。それこそが本物の愛と呼べるものではないでしようか。

 

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第2章:愛は与えて無限に溢れる

第2章 愛は与えて無限に溢れる

 

 〈欲しいと思っている人からは逃げていく愛だから〉

  砂漠に浮かぶ蜃気楼のように、追えども追えども到達できない。

 愛して欲しい、愛が欲しいと願う人が愛されず、特に願いもしない人が愛される。この皮肉な現象は、私たちの身の回りには多く見うけられます。それでも諦めきれず、見果てぬ夢を追い続ける人。どうせ真実の愛なんてないんだからと、うそぶく人。

 愛は、私たちの心に大きな喜びを与えてくれますが、その愛を常に心に宿している人は数えるほどしかいません。ほとんどの人が愛を失い、傷つき、挫折して不幸になっています。

 どうも、愛にはそれを欲している人には得られず、むしろ逃げ去ってしまうという傾向があるようです。

 愛は相手の幸福を願う祈りにも似た心があり、相手にも自分にも心の満足を与えます。

黙って忍耐し、喜んで犠牲になり、悲しみや苦しみを和らげ、生きる喜びを与え希望を抱かせ、人間らしく生きようと努力するようになります。

 ノーベル平和賞を受けたマザーテレサは、インドの貧民窟で、あと数時間の生命という人たちを介抱しながら、「あなたも望まれてこの世に生まれてきたのですよ」と語り続けています。

 インドの大都市カルカッタは、農村から流れ込んできた大量の貧民で3百万人以上にもなり、1日に何人もの人が路上で亡くなっていると言われています。その貧しさは、将来乞食をやる時に有利なように、子供が生まれるとすぐ、片手や片足を切り落としてしまうというほどのものです。

 人間にとって最大の不幸とは、病気になることや貧乏になることではありません。むしろそのことによって見捨てられ、誰からも必要とされなくなることと言えるでしょう。

 親や兄弟からも見捨てられ、人間としての価値を一度も尊ばれたことのなかった貧民たちは、マザーテレサの言葉と愛の奉仕に触れ、安らかな顔になって息を引き取っていくのでした。彼らは、この宇宙のどこかに確かに存在し、人類の幸福を願い、祈っている愛の究極存在の姿を感じたに違いありません。

 

〈異性間に流れる情の引力は愛とは別のもの〉

  愛は親の愛に通じるものであり、男女間に感じるものとは根本的に違っています。

 男性と女性は、磁石のS極とN極のように、それだけで引き合う性質を持っています。

男性にとって一番気になる存在は女性であり、女性にとっても一番気になる存在が男性です。心が引き寄せられ、情が流れ出してしまうのです。

 これはむしろ、時と場合と相手をわきまえながらコントロールしなければならないものであり、「相手を大切にすること」という愛の定義から考えてみるなら、愛とは根本的に違うものと言えるでしょう。

  男女間に流れるこの引力は、初めは希望や喜びを与えますが、やがて不安と嫉妬に変わり、最後には絶望と深い孤独感に至ることが多いのです。時には自殺や心中、家出、離婚といった問題にもなりかねません。古今東西のあらゆる文学がこの問題に取り組んできましたが、根本的な解答を与えることができませんでした。

 作家の遠藤周作氏は、愛と区別するためにこの男女間に流れる引力のことを「熱情」と呼んでいます。

 この熱情は、かつてドナウ河を渡る船人たちが対岸の美しい乙女に見とれている間に、急流にのみ込まれて沈没してしまったというローレライの伝説のように、多くの青年男女の人生を狂わせ破滅に追い込む原因となっています。

 非常に魅力的であり、他のすべてのことが価値のないものに思え、相手とその熱情を手に入れることしか考えられなくなってしまいます。まさに熱病そのもので、相手のことをよく知っている第三者から見るなら、なぜそんなに恋いこがれているのか理解できないということになります。

 この場合、愛しているのは実は、自分の心の中にある理想の異性像であり、その熱情の中にあって興奮状態にある自分を喜んでいるというのが、正確なところではないでしょうか。

 

〈愛しているのは、現実の相手に投影した理想像〉

  若者は、誰もが理想的な異性像を夢みており、自分が描くその像にほぼ一致するような人に出会うと、相手がその理想的人物であると思い込んでしまうようになります。

 しかしそれは、ずっと以前から自分の心の中で愛し続けていた異性像であって、相手の人格をよく知って愛しているのではありません。これはいわゆる一目ぼれの状態ですが、時間の経過とともに実際の相手の姿が分かってきて失望し、愛情が失われていくようになります。

 誰もが心の奥底に理想の異性像を温めています。それは家庭環境や精神的影響圏の中で時間をかけて作りあげられたものであり、愛情の欲求や様々な願望が複雑に織り成されています。

 特に影響を受けるのが父親と母親から、どのような愛情を受けて育ったかということです。このバランスが崩れている人や愛されなかったという欲求不満を持っている人は、父親像や母親像を強く異性に求めるようになり、円満な愛情関係を結びにくくなってしまいます。

 親で満たされなかった愛を異性に強く求めるか、または極度に嫌うかになってしまうのです。

 不思議なことに、強く求め合う男女の出会いは、お互いの家庭環境の中で愛されなかったという愛の恨みをもっている場合が多く、激しく燃え上がりすぐに冷めてしまいます。

 これに対して、両親の愛を十分に受けて育ってきた男女の出会いは、激しく燃え上がることこそないかもしれませんが、暖かく平和で充実した愛の世界を築き上げていくことが可能です。

 大切にされ愛されたことのある人間は、同じように他人をも愛することができるからです。思春期になり、誰もが経験する異性への強いあこがれ、熱情に動かされることはあっても、両親の姿を通して本当の愛とは何かを知っていますから、道を踏みはずすことはまずありません。

 

 〈自分の情的欠陥を補い、人を愛せる人間になろう〉

  恋という熱情にとらわれると「彼」「彼女」こそ自分が捜し求めてきた人であり、この時を逃したら二度と会うことができないと思い込んでしまいます。しかし、本物の愛を得たいと望んでいるあなたなら、これは幻想を見せられているのだと気づくはずです。

 ですから、恋人や結婚相手を捜そうとあせる必要はありません。生涯の伴侶となる人との出会いは、あなたに最もふさわしい時に、不思議な偶然性によって与えられることが多いのです。

  結局、一番大切なことは自分の心の中の情的欠陥を補い、他人を愛せる自分になることです。心の中に様々な恨みやしこりがあり、自分で自分を愛せないのに、どうして特定の異性を愛せるでしょうか。

 

 〈愛は真実の関係を結ぶ時、両者に発生する最高の力〉

  愛されたいという思いは誰の心の根底にもあります。そしてそれは本来、家庭において父母から愛されて十分に満たされていなければならない欲求なのです。しかし、完全無欠な両親の愛情を十分に受けて育ったという人はほとんどありません。

マルチン.ブーバーという思想家は、「我」と「汝」という関係を結ぶ時、そこに愛が生じてくると語っています。

 つまり、愛というものは自分と他との間に真実の関係を結んだ時、その二人の間に生じる豊かな情的「力」であり、すべての人々に喜びと幸福を与え得る根本的な「力」となるのです。この愛のパワーの中に包まれると、心の傷の一つ一つが癒され、何の思い煩いもなくなってしまいます。この愛の力は、他に与えても尽きることなく、むしろ与えれば与えるほど多く溢れ出てくるようになります。

 したがって、本物の愛を得る方法は、自分を愛して欲しいと欲求し、訴えることではなく、他人を優先して愛し、与え尽くす生き方に切り替えることにあります。

 アッシジの聖フランシスの平和の祈りは、そのことを私たちに教えています。

 

 主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、消えることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです

 

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第1章:愛に似て愛と異なるもの

 第1章 愛に似て愛と異なるもの

 

 〈人との関り合いがうまくできるかどうかで、幸福になれるかどうかが決まる〉

  誰にとっても、人間というものは、もっとも興味ある存在ではないでしょうか。

 言うまでもなく、人の間と書き、一人では生きていけない私たちは、毎日、多くの人との関り合いの中で生きています。

 この、人との関り合いがうまくできるかどうかで、幸福になるかどうかが決まると言っても過言ではないでしょう。

 ところが、この人との関り合い、いわゆる人間関係が得意だという人は、なかなかいないと思います。有能で社交上手と思われている人が、家庭では口数が少なく夫婦仲がうまくいかなかったり、なぜか異性問題が多かったりというように、どこかでバランスが崩れてしまうことが多いのです。

 誰もが人に好感を持たれたい、そして人との間で豊かな愛情関係を結びたいと願っているにもかかわらず、恨まれたりして不幸になることが多いのです。

 若者たちにとっては、やはり異性との愛が最大の関心事ではないでしょうか。心の中では常にステキな恋人との出会いを待ち望んでいます。

 ところが、気軽におしゃべりしたり、映画やドライブに行ったりすることのできる友達はいても、心の底から深く愛し合える異性との出会いはなかなかやってきません。

 好きな人ができても、この愛はいつまで続くのだろうという不安が、常に心の奥底にあります。うつろいやすい自分の心を知っているがゆえに、人を愛せる自信がないのです。

 さらに若い青年男女を惑わしているものに性の問題があります。

 映画や雑誌の性描写によって、性関係を結べば、それだけで満足感が得られるように思い込んでしまい、性体験への期待で頭が一杯になってしまう時期があります。セックスの具体的ノウハウはこと細かに書かれていますが、何か大切な点が抜けているように思われます。

 つまり、性を見詰める心の在り方という最も大切な点が示されておらず、自分でもどうしていいか分からないため、非常に不安になってしまうのです。

 男女の愛と性は、炎のように激しいものですが、それだけに冷静さが失われ、本物の愛から離れてしまうことのほうが多いのではないでしょうか。

 愛情とは、意志力と実践力によって築きあげていくもので、テクニックではない

  高校時代、特定の異性を意識した時のこと、人を愛するとはどういうことなのかを知りたくて、多くの書物を読んでみたことがあります。たしかに、もっともらしいことは書かれていましたが、私が本当に知りたいことは書かれていませんでした。両親や先生や友人に聞くこともできず、一人で悩んでいました。

 その後、人並みに様々な人生経験をし、結婚して二人の子供を持つようになった今、愛とは何かが少しずつ分かってきたような気がします。

 かつて私は、そうした内容を両親を聞きたいと思っていました。ですから私は、自分の子には、必ず伝えようと思っています。愛、性、結婚、人間関係のあり方等を。

 そして、今、人間不信の暗闇の中で、本物の愛を求め、人間らしい生き方を求めようとしている人の参考になるなら、喜んでそのことをお話ししたいと思っています。

 それはむしろ愛情人間学というべきかも知れません。なぜなら、愛情とは意志力と実践力によって築きあげられていくものであり、それは男女交際のテクニックというようなものではなく、普遍的な学問的アプローチで取り組むべきものだと思うからです。

 これから始まる私の誌上説法は、まだ研究過程にある私の中間論文であり、それを完成させるのは、読者の皆さん一人一人であると考えてください。

 


〈愛に似て愛とは異なるものを、はっきりと区別することが必要〉

  それにしても、愛という言葉がずいぶん多く使われていますね。逆説的になりますが、愛という言葉が氾濫しているということは、それだけ愛のない時代であるとも言えるでしょう。

 本当に愛している人には、むしろ「愛」という言葉を語れなくなるという、多くの経験からこのことが実証できるのではないでしょうか。

 「アイラブユー」という洋画のセリフを映画館の中で聞く機会が多くなり、直訳的に「愛しています」と語るようになってきた。これは私のかってな解釈ですが、戦前は親が結婚相手を捜し出すものであり、恋愛はまるで犯罪のように思われていたと聞きます。

 江戸時代には「恋」であり、初めて聖書を日本に伝えた外人宣教師は、聖書の中に書かれている「愛」を「タイセツニスルコト」と翻訳しました。

 愛という言葉に含まれている意味は、本来は「大切にすること」「いたわり」「思いやり」であり、仁や慈悲に通じるものです。ですから愛の中には、人類愛、兄弟愛、親の子に対する愛、師弟愛、夫婦愛と、実に多くの要素が含まれているのです。

 いずれにしても、愛は相手の幸福、成長、発展を願い、そのために時として私をして喜んで犠牲の道を行かせることさえあります。

 これらのことを愛の定義とすると、愛に似て愛と異なるものをはっきりと区別することができます。

 自分が果たせなかった夢を子供に託そうとする母親、相手の中に理想の恋人像を投影し、現実の相手を見ようとしない恋人たち、女性の精神的肉体的事情を理解しようとせず、自分の性欲を満たすことしか考えない男性、好きという感情の中におぼれ、むしろその中に陶酔することを望む恋人たち、性の衝動を相手への愛とすり替えようとする男性の論理。

 いずれの場合も、相手は自分の願望や欲望を満たすための対象であり、自分が満足することしか考えていません。愛と言いながら自己愛の変形となっているのです。

 愛と思っているものが、実は最も愛と異なっているという現実を、直視しなければなりません。

 

〈愛は信頼と安らぎと、平和を感じさせ、生きる力の源となる〉

  さて、それでは愛とは一体どこにあるものなのでしょうか。

 ギリシャ神話の中に、愛の神エロスが出てきます。エロスは雲のような存在で、人の心の中にフッと入り、フッと出ていきます。

 これは実に分かりやすい表現であり、多くの人が経験していることと思います。ごく普通の友達だと思っていたのに、ある日突然意識するようになり、朝から晩までその人のことばかり。草や木や花が突然輝きを増し、心は愛の喜びで一杯になる。ところが半年、一年とたっていくうちにいつしかその愛の思いも消え失せ、すべてのものが色あせてしまう。愛の無常、愛の悲しみですね。

 なぜそうなってしまうのでしょうか。実は愛という存在が、ギリシャ神話で表現されているように、人の心に自由に出入りすることのできる不思議な存在だからなのです。

 これは恋愛に限らず、人類愛、兄弟愛、親の子に対する愛、師弟愛、夫婦愛と、愛情と名付けられるものすべてに共通している点であり、愛は互いに関りのある二人の中に湧き上がってくる泉のような存在なのです。

 人間それ自体の中に存在しているものではなく、互いの幸福と向上と発展を願う者同士が寄りそう時、その二人の心の中に感じられる温かい大きな力。信頼と安らぎ平和を感じさせ、生きる力の源ともなるのです。

 かなり抽象的な話になってしまいましたので、分かりやすい例で説明してみたいと思います。


 映画「スターウォーズ」の中で「理力」(フォース)という言葉が出てきたことを覚えていらっしゃると思います。「理力」(フォース)とはこの場合、宇宙に存在する目に見えない根本的パワーであり、精神力の訓練を積むことにより、この「理力」(フォース)を使うことができるようになり、超能力者のようになれる。しかし、「理力」(フォース)には暗黒面の要素もあり、憎しみを持つ者は、そちらの側に引きずりこまれてしまう。

 この「理力」(フォース)と表現されているものが、まさに「愛」そのものと言えるでしょう。愛は目には見えませんが、宇宙の中にすべての存在の根源的力として存在しています。

 私たちが他人への思いやりの心、いたわりの心を持とうとすると、この愛の力は私たちを媒体として力強く流れ出します。ちょうど、高圧電流が導線を伝わって流れていくようにです。

 人生を豊かに送っている人、人の幸せのために生きることを喜びとしている人は、この不思議な愛の力の働き方を知っている人です。自分のことを考える時にはこの力は働きませんが、人のために自分の利害を越えて尽くす時、心の奥底に勇気と生きる力と、暖かい思いが無限に溢れてくるようになります。

 人間生活の中で、この宇宙的愛に近づき、愛を活用して安らぎと信頼と喜びの人生を送るか、それとも愛のように思える幻影に振り回され、不安と不信と絶望の人生を送るか、その違いを見分け、本物の愛を感じられるように、心を訓練していかなければなりません。

 

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愛と性と人生〜はじめに〜

〈はじめにまじめに愛と性を考える〉

僕が10代から20代の独身時代に、価値観・人生観において影響を受けた酒井正樹氏の著書の内容を紹介したいと思います。

今は40代になり、妻と3人の子供たちと暮らしながら

いまなお共感することが多いですし、子供たちにも時期をみて教えていきたいと思ってます。

シリーズで載せますので長くなりますが関心がある方はお読みください。

 幼稚園から大学まで、20年近くも教育を受けるのに、人間にとって最も大切な愛という課題に取り組んだ学科もなければ授業も無いというのは、考えてみれば不思議な話です。

 愛とは何か、どうしたら愛情に溢れた人間になれるのか、幸福な結婚をするためにはどうしたらいいのか、愛と性の見詰め方、親子の愛情の在り方、人に好かれるためには、という具合に、愛をめぐるテーマは人生の大切なものばかりです。

 心や人間の生き方の問題は、なかなか学問になりづらいかも知れませんが、愛されれば嬉しく嫌われれば悲しいのは、古今東西を問わずすべての人に共通の原則です。

 愛にまつわる人間の生きざまを科学的に分析し、それをまとめていくならば、今までの学校教育以上に重要な、新しい学問体系となるのではないでしょうか。私はそれを愛情人間学と呼び、心の在り方が問われている今の時代にこそ、すべての人に必要なものであると確信しています。

 私自身、まだ人生半ばの研修生ですが、人生の折り返し点に立ってみる時、十代や二十代の時に感じた不安や疑問はほとんど解決され、恋愛、結婚、愛と性といった問題をかなり冷静に見れるようになってきました。

 

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かけがえのないあなたへのメッセージ

あなたはこの宇宙の中でたった一人しかいない

かけがえのない存在です。

あなたが誕生する時、神様はかぎりない期待と喜びに胸をふくらませていました。

そして、今もあなたをじっと見守り陰から支え、あなたが幸せになる事を願ってあらゆる手配をされています。

あなたのまわりには、神様の愛が満ちあふれているのです。心を澄ませ、耳を澄ませてその声を聴く時あなたの人生は大きく変わります。

 

草花が太陽に向けて花を咲かすように

私たちも人の温かさにふれた時

固く閉じていた心がやさしくなごみます。

ちょっとした思いやりが

人の心を感動させ

小さないたわりが

人と人を結びつけるきずなとなります。

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危機管理〜有事に備える〜:スゴイぞ!六本木ヒルズ

最近、北朝鮮問題がクローズアップされています。
僕も少し前までは気にはなっていましたが、それほど緊急性は感じていませんでした。
しかし、北朝鮮のミサイルに反応して日本でも地下鉄や新幹線が止まったり、肉眼で弾頭の光が見えたりするとまったく無視はできませんね。
不安を煽るようなことはしたくありませんが、有事に備えることは必要かなと思います。

内閣官房国民保護ポータルサイト」をみると、まず全国瞬時警報システム(Jアラート)を登録しておくこと、そしてもしミサイルが飛んでくるようなら非難(頑丈な建物かできれば地下街など)するとのことです。
http://www.kokuminhogo.go.jp/shiryou/nkjalert.html

安全保障に詳しい人によると、地下街を核シェルターとして利用することもそれほど難しいことではないようです。
通気口のフィルターを粒子レベルでカットできるものにし、水と食料、医療対応が出来ればOK。

それで、今の職場が六本木ヒルズであったので、ちょっと調べてみると六本木ヒルズ(森ビル)は当初から災害時のインフラを考えて作られてるのだとか

水や食糧はもちろん、施設内のエネルギープラントから供給される電力による空調設備がある

 

具体的には、食料は5000人が6日間暮らせる。

ガスタービン発電機で自家発電しているため、周辺地域が停電しても六本木ヒルズは決して停電することがない。

5000人が寝る場所として、普段は人が歩くオープンスペースで屋根もある「ウェストウォーク」が有事の際には避難場所として解放される予定だ。地面に空調の吹き出し口があり、冬の寒い時期に避難することになっても外冷えを和らげることができる。

(スゴイぞ森ビル👀)

https://www.google.co.jp/amp/www.gizmodo.jp/amp/2016/03/post_664236.html
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 核シェルター化も可能?

 

そうなると、六本木ヒルズの地下を核シェルター化することもできなくはないのでは?と考えてしまいます。
個人で核シェルターを
なんて考えてもほとんどの人が購入なんてムリだと思うので、地域・グループぐるみで考えなきゃね。
森ビルさん一つよろしくお願いします😆

 

それと、都営地下鉄 大江戸線なんか地下40mを走ってるんですよ
ここなんかも爆風なんかの影響は受けそうにない
一説によると有事に役人が都心部から近郊に非難する(逃げ出す🙊)ために作ったのではないかとも言われてますが…

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