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オーナーシップという生き方をめざして!喘息持ち頭痛持ち高血圧糖尿病の妻とともに、アトピー性皮膚炎・食物アレルギーの三兄弟を育てる男のブログ

第4章:性教育は人間教育の骨格

第4章 性教育は人間教育の骨格

 

〈愛と性が分離する男性、同一視する女性のすれ違い〉

 性をどう見つめたらいいのか?

 これは人間としてどう生きるか、ということと同じ意味の最も本質的な問題です。

 ですから性教育とは、生物学の教育ではなく実は人間教育の骨格でなければなりません。

そこでまず最初に、男性と女性の性の違いについて考えてみたいと思います。

 一般に男性は、中学から高校の頃にかけて性欲が非常に強くなり、女性の体に興味を持ち性体験にあこがれるようになります。

  既に性体験のある友達は「大人」であり「英雄」であり、自分も早く性体験をして大人の仲間入りをしたいと思っています。

 女性の体を思い浮かべては淫らな妄想にふけり、女性であれば誰でもいいからと性交欲で頭が一杯になります。

 性欲は十六歳の頃が一番強く、それに伴う頭脳の発達はさらに十年かかると言われています。つまり理想と愛情で性欲を、ある程度コントロールできるようになるのは、二十代の後半になってからのことです。

  特定の女性を意識するようになると、相手を美化し理想化して考えるようになりますから、その清らかな相手に、自分のどす黒い性欲を向けるのは罪悪に感じられ、極力、自分も清らかな思いを持とうと努力するようになります。

 もちろん個人差がありますから、自分の好きな女性には清い思いを持ちながら、性欲はプロの女性で処理するという、割り切った男性もかなりの割合で存在しています。

 いずれにせよ、男性は愛情と性欲がバラバラでも当然という存在であることを、若い女性はよくよく覚えておく必要があります。

 精神異常者や麻薬による犯罪が多いアメリカでは、強姦が多く、若い女性は護身術を習い、服装や一人歩き、アパート住まい等にも相当な神経を使っていると言われています。

どんなに無害に見えるおとなしい男性でも、密室で一対一になったら性を意識するようになります。環境には十分注意して下さい。

 

〈誇張された性描写によって歪められた認識〉

  これに対して女性は、愛情と性欲が一つであり、愛する人以外とは性関係を結びたくないというようになっています。

 女性が男性と大きく違う点は、肉体関係はそのまま妊娠や出産という肉体的苦痛につながるということです。そのため男性と違って保守的にならざるを得ないのです。「お互いの責任において肉体関係を結んだのだから、人からとやかく言われる筋合いはない」と言う男性がいますが、その結果生じてくる妊娠や出産について、実際のところ男性は全く責任を取ることができないものです。

 性欲を満たすことに無我夢中になっている時、男性はその結果としての妊娠や新しい生命については、全く考えてないというのが現状ではないでしょうか。

 予期せぬ妊娠となった時、ほとんどの男性は逃げていくか中絶を迫ります。これこそ、目的は女性の肉体にしかなく、相手の心を愛していないことの何よりの証拠にほかなりません。

  女性からすれば、男性が肉体を求めてくるのは愛している証拠であると考えるわけですが、男性からすれば、愛とは関係なく自分の性欲を満たすために、遊びやすい女性を求めただけのことなのです。

 性は本来人間に与えられた最も貴い世界。その性を動物以下のものにしないよう、特に若い女性の賢い知恵が必要とされています。

 結婚してから初めて分かったことの一つに、それまで性について考えていたことが、実際はずいぶん違うものだったということがあります。

それは、多分未婚のほとんどの男性が誤解していることではないかと思うのですが、「性体験をすれば素晴らしい快楽が得られるのではないか」という認識です。

 毎日のようにテレビや映画や週刊誌で性体験のシーンばかり見せられると、性関係を結べば、それだけで陶酔感に浸ることができるのではないかと思い込むのも無理からぬことですが、実際は必ずしもそんなものではありません。

 それらの性描写には多くの誇張と嘘が含まれています。私の家内は「女性が映画を作るなら絶対あんな描写にはならない。男性が女性に対する自分の願望を持って映画を作るからああなるのよ」と憤慨していましたが、性産業は太古の時代から性の快楽を強調し、多くの男性を惑わしては暴利をむさぼってきたのです。

 聖書によると、エデンの園でエバは蛇に誘惑され、禁断の木の実を取って食べることによって堕落したと書かれています。禁断の木の実は、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」とエバの目には見えたのですが、現代の若者にも性は全く同じように見えているのではないでしょうか。

 肉体的だけでなく精神的にも大人になり、相手を思いやるという愛が心の中に宿るようになって夫婦となれば、性は禁断の木の実ではなく、お互いの愛を深め子孫を繁栄させるための祝福の木の実となります。

  しかし時期がまだ来ていないのに、快楽という結果だけを求めると、それを得られないばかりか、苦痛と苦い後悔を味あわなければならなくなってしまうのです。

 

〈人格を無視した性体験は、孤独の淵に陥る〉

  若い男女の性体験は、戸惑いや恥じらいの方が大きく、また、それぞれの肉体の反応の仕方が違うために、なかなか一致を見ることが難しいものです。

 性の意識は、人間の心の深みにあるものであり、心がさまざまな紆余曲折の路程を経て傷だらけになっているように、精神的影響を非常に受けやすく、簡単に解放されるものではありません。

 ですから、生涯を共にする相手かどうかも分からないというような不安な気持ちの中で、

どうして喜びを得ることができるでしょうか。

 所詮、人間の心は肉体の刺激によって感動を得られるのではなく、真善美愛といった精神的要素によってしか喜びを得られないものです。

 性体験それ自体から快楽を得ようとする人は、そこに何の人格的交流も見いだすことができなくなり、むなしさと孤独の淵に追い込まれるようになります。それでもなお快楽を求めようという人はアブノーマルな性的嗜好に走って行くようになるのです。

 異性を貴重な人格、魂として見ずに肉体としか見ない人の性体験は、一時的な快楽はあっても感動のない深みのないものとなってしまいます。本来、もっと素晴らしいものである性体験を本当の意味で知ることができないようになってしまいます。

 そして、男と女なんてこんなものさと嘯くようになり、人間不信に陥ってしまいます。

これが、心の中に他人への思いやりの心、愛がまだ熟していない未完全の時に性体験を持ってはいけない重大な理由なのです。

 無責任な週刊誌や一部のマスコミは、性の解放を唱え、お互いが愛し合っているのだったら、性関係はあたりまえと主張しています。もちろん性がタブー視されるのも、政略結婚のための道具とされるのも良くありませんが、人間としての個の確立がされていない時に、欲望と興味本意で性体験をするのは絶対にさけて下さい。

 性体験したから大人になるのではなく、最も利己的である性欲をコントロールし、深い愛情と信頼に結ばれた永遠の夫婦として性体験をすることにより、初めて大人になることができるのです。

 

〈純潔を守り抜いた後に得られる夫婦愛の世界〉

  性は、生涯の伴侶となった夫婦が、お互いの愛を高めるための人間理解の一つの手段であり、二人の信頼と努力の積み重ねによって、初めて性の喜びを感じることができるようになるのです。

 それは結婚してから何年もかかるのであり、夫婦が身も心も一つになれたという体験は、私の体験ではそういつもあるものではありません。男性が自分の性欲を動機として性関係を求めると結果はみじめなもので、相手が本当の意味で幸福になれないのに、どうして自分に喜びがあるでしょうか。

 性は恐ろしいほどに精神的なものであり、夫婦の道は実に奥が深い、これが私の実感です。夫婦生活の中で、妻を通して私は自分の性欲がより本質的な愛に溶かされていくのを知りました。

 性の喜びは、いわゆる肉体的テクニックではなく、夫婦がより人間として成長し愛し合っていく中で感じられるようになるものであり、信頼と忍耐と努力の積み重ねなくしては得られません。

 このことをはっきりと認識し、性の誘惑に惑わされないように自分の心と闘って下さい。

純潔を守り抜いた後に得られる夫婦愛の世界は、もっともっと素晴らしいものであるからです。

 

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