ヨシジのブログ

オーナーシップという生き方をめざして!喘息持ち頭痛持ち高血圧糖尿病の妻とともに、アトピー性皮膚炎・食物アレルギーの三兄弟を育てる男のブログ

第10章:愛は自分の内に育てて、人との関わりの中で注がれてくるミラクルパワー

第10章 愛は自分の内に育てて、人との関わりの中で注がれてくるミラクルパワー

 

〈文学や哲学は愛についての解答を与えていない〉

  愛は人間社会を結びつけ、潤いを与える最も大切な要素ですが、愛とは何か、どうしたら愛情豊かな人間になれるかという根本的な課題について、文学や哲学ではこれぞという解答を与えることができませんでした。

 それどころかむしろ混乱を与え、人生を生きるにあたっての真理はないのかという絶望感と虚無感を与えてさえいるのではないでしょうか?

 高校時代に始まった私の愛情探求の旅は、中年になって今ようやくそれなりの結論を得、次の目標に向かおうとしているところです。

 今までの九章の内容は、不十分ながら私が見聞きし自分で体験するなかでこれだと感じさせられたものですが、ここで、愛の成長していくプロセスをもう一度整理してみたいと思います。

 

 〈両親から愛されて、心に愛の感性が育つ〉

  この世に生をうけて、最初に感じるのは両親からの溢れんばかりの愛情です。その誕生を望まれ、多くの人々に祝福されて温かい歓迎の雰囲気の中で、赤ん坊は愛情というものの温かさと素晴らしさを体で学んでいくわけです。

 「三つ子の魂百まで」とよく言われるように、この時期に心に感じた親からの愛情が、その子の人格の基礎となり人間関係の根本となります。

 頭の中を走る様々な脳細胞が結ばれるのがこの幼児期であり、愛情に溢れた家庭の中で育った子供の脳細胞はたくさん結ばれて優秀な頭脳となり、愛情に飢えた子供の脳細胞は発達が遅れるという最近の大脳生理学者の研究報告は、この時期の重要性を立証しています。

 これ以上は、大脳生理学の分野になってしまいますのでそちらに譲るとして、両親の愛情を受けて初めて心に愛の感性が育ち、愛情の素晴らしさや温かさを知り、他人をも同じように愛していくことができるようになるということを、幼児期のまとめにしておきます。

 

 〈愛するとは相手の幸福のために無私になって尽くすこと〉

 それでは「愛する」とは一体どうすることなのでしょうか。子を持って親となってみると、子供に対して無条件にいとおしいという気持ちがこみ上げてきます。そして子供の幸福のためなら、どんなことでもしてあげたいという気持ちになります。

 しかし、それは子供のやりたいということをそのまま受け入れることではありません。

子供のわがままを直すために、心を鬼にして厳しく叱らなければならない時もあります。

言って分からなければ、押し入れに閉じ込めたり、家の外に出したりする体罰も必要です。

 このように、親の子供への愛情を見る中に愛の定義を見つけ出すことができます。つまり、「愛する」とは、相手の幸福のために無私となって尽くすことであり、「好き」だから「いとおしい」からというような感情の問題ではなく、意志力と責任の問題だということです。

 思春期になって、特定の異性に心が引かれるようになると、不安定な気持ちになります。

 さらに男性は、性的欲求を強く持つようになり、異性への憧れと性欲との葛藤の中でどうしていいか分からずに悩みます。

 これらの複雑な感情は、やがて彼らが結婚して家庭を持つようになるための前兆であり、大人となるために、人間としての訓練を積みなさいという天の合図とも言えるのではないでしょうか。

 思春期になると、異性に引かれるようになりますが、これは磁石のS極とN極が引き合うように、夫婦となるべき相手を探し求めるための自然の摂理とも言えるでしょう。

 この時の感情は、こちらの女性からあちらの女性へというようにうつろいやすいもので、なぜその女性がいいのか、理屈で説明できるようなものではありませんが、第三者から見るならば、家庭環境の中で形づくられた父親像、母親像によるところが大きいよう思われます。

 この不安定な思春期を乗り越える鍵となるものは、両親から受け継いできた愛情と両親に見る夫婦愛の世界です。両親のような夫婦になりたいと思っているなら、愛の力によって感情と性欲をコントロールし、相手を大切にしようとします。

 性欲の問題については、父親がもっと性のありのままの姿を、子供に正確に伝えなければならないと思います。

 男性は性関係を結ぶだけで快感が得られるものと思っていますが、実際には肉体関係を結んだだけでは、それほどの快感は得られず、深い愛情とお互いの努力なしには到達することのできない、精神的な世界です。

 最も自己本位な性欲を愛情という、相手のために生きるという思いやりと意志によってコントロールし、お互いの努力を積み重ねることにより、初めてお互いに喜びを感じることができるものです。

 若い青年男女の一部に見られる、同棲や性体験は、まだ人間としての愛情が未完成の時であるため、相手への責任や肉体への配慮ができず性体験も未熟なものに終わってしまいます。

 性は心と体のバランスが取れ、熟するならもっと素晴らしく豊かなものとなるのに、未熟のうちにもぎ取ってしまうと、むしろ愛情や人間が信じられなくなるという、恐ろしい結果をもたらしてしまうのです。

 

 〈家庭は愛情を完成させるための人間練磨道場〉

  結婚によって、人間は初めて異性という存在を具体的に知るようになります。独身時代には分からなかった微妙な感情の動きや、基礎知識の違い、男性と女性では根本的に違う愛と性欲。

 新婚ほやほやの夫婦というと、甘い雰囲気を連想しますが、当の本人たちにとっては、毎日相手のデータを集めながら、次はどんなボールを投げたらいいだろうという具合に、研究と学習の日々であり、性生活についても結婚前に男性が考える「結婚したら毎日楽しめる」というようなものではありません。

 いずれにせよ、結婚によって人は愛することの重みと、その意味を知るようになり、人に対する接し方が少しずつ変わっていくようになります。

 子育てとなると、さらに忍耐を強いられるようになります。善悪も分からないわがままな子供を、立派な社会人になるまで育てるためには、親の相当な努力と愛情が必要であり、自分の分身のような子供の姿を見ていると、反省させられることのほうが多く、結局子育てとは、自分自身を育てることであると気付かされるのです。

 

 〈人間は人との関りの中で幸福となる〉

 社会生活は、個人と家庭生活の延長にあるものですが、自分の個性を生かしながら他のために何ができるかという愛の実践の場であり、それ以前の個人と家庭生活の中で、自分の心の中に愛情を育てていない人は、他人との人間関係がうまくいきません。

 社会人として仕事ができるかどうかは、結局のところ人間関係をどれだけ円滑にできるかにかかっており、自己主張が強かったり人間への不信が強い人は、仕事もうまくいきません。

 人間にとっては、お金や権力や能力は人との関わりの中で初めて生きてくるものであり、人間は人の間でしか幸福になれない存在なのです。

 孤独が好きな人などは本来存在せず、人と仲良くしたいと思いながらも、なかなか思うようにいかず、自分の殻の中に閉じこもるようになっているのが現状ではないでしょうか。

 一度や二度、恥をかいたり失敗することを恐れずに、人間誰もが持っている愛情と善意を信じて、相手の懐に飛び込んでみましょう。まず自分の殻を捨てて、相手の前に立ってみると以外とスムーズに話が通じるものです。苦手なタイプでも、幼かった頃の故郷の思い出を聞いてみたりすると、それをきっかけにして仲が良くなることもあります。

 誰もが良き話し相手を求めており、自分にとって大切な人が何人いるかが、人生のかけがえのない宝となるのです。

 いったんこのような人間関係の回路ができあがると、心の中に喜びや思いやりの気持ちが溢れんばかりに沸き上がってきます。

 愛は私たち人間がこの地球の上で仲良く暮らそうとする時、癖の多い私たちへの潤滑油として宇宙のどこからか注がれてくるミラクルパワーです。幸福な人生を過ごすことのできた人は、例外なくこのパワーを自分自身の内に取り入れています。仏教で大生命と呼び、キリスト教で神と呼んだこの力は、人のために尽くそうという思いを持った人の心に注がれ、枯れることがありません。

 今まで、おこがましくも青春説法と銘打って書いてきたのも、皆さんにこの素晴らしい宇宙の力の存在を知っていただきたいためであり、その愛の力によって自分の心を作りかえ、幸福に満ち溢れた人生を送っていただきたいためなのです。

 

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第9章:愛の力を家庭から社会へ

第9章 愛の力を家庭から社会へ

 

家庭内暴力や非行の原因は両親にある〉

  子供は両親の愛情を栄養として育ち、両親の生きざまを規範としながら大人になっていきます。家庭は愛を育て完成させるための道場であり、人格形成と何が善であり何が悪であるかという規範教育のための、最も重要な拠点です。

 その家庭が家庭らしさを失い、潤いが無くなりつつあるのですから大変です。無気力、いじめ、家庭内暴力、登校拒否、性犯罪の増加は、いずれも親の子供への態度に、根本的な問題があるからと断言せざるを得ないでしょう。

 友人の教師が、最近のいじめの問題についてこんなことを語ってくれました。「他人を大切にできないのは、自分が大切にされたことがないからなのです。親から大切にされてきた子供は、自分がされたと同じように友達をも大切にしています。成績の悪い子や態度の悪い子を立ち直らせるたった一つの方法は彼らの親になりきることで、できれば父親と母親の両方の役がそろうといいですね。みんな淋しいんです。このごろは親が親としての役目を果たしていませんから。心のリハビリセンターがあって、そこへ行くと自分の父親と母親になってくれるカウンセラーがいる、そんな場所があればいいなと思っているんです」

 誰もが心の奥底で、愛されたかったという愛の恨みを持っており、そのバランスが父親の方にかたよっているか母親の方にかたよっているかで、人間関係に微妙な影響を与え、願わざる不幸を自ら招くことになってしまうのです。

 
〈男性拒否症と女性拒否症〉

  男性拒否症と女性拒否症とは、私がかってに付けた名前ですが、家庭環境の中で両親から受けた心の傷が原因になって男性あるいは女性とうまく接することができない、つまり反発したり軽蔑したり、自然にふるまえなかったりするという症状のことです。

 この症状は程度の差こそあれ、すべての人に現れており、上司や友人、夫婦関係がうまくいかない人を調べると、必ずこの問題に突き当たることに注目していただきたいのです。

 子供にとっては、両親の仲が良いことが最も嬉しいことであり、夫婦ゲンカは心臓が凍りつくようなショックで、大きな心の傷となってしまいます。

 幼児にとっては両親はまさに先生そのものであり、絶対的な信頼を寄せている存在です。

その二人が、目の前でお互いの性格をののしりあっていたら、その信頼は音を立てて崩れてしまいます。

 人間不信の出発点は、実は親への不信にあるのです。人を信じることのできない人が意外に多くいますが、彼らは幼児期や少年期に夫婦ゲンカや尊敬できない親の姿を何度も見せられてきた、かわいそうな人と言えるのではないでしょうか。

 父親と母親への不信と、愛されなかったという愛の恨みは、記憶には残っていなかったとしても、潜在意識の中にしっかりと刻み込まれます。そしてそれが人格の中心となり、顔にまで現れてくるようになります。

 この愛の恨みが親から子、子から孫へと雪ダルマ式に相続されてとやがて人のことを思いやることができないばかりか、いじめたりして人の不幸を喜ぶ人間が増えてくるようになってしまいます。

 家の中から団欒が失われ、家族のきずなが失われつつある現在、人間の尊厳性はこのようにして確実に蝕まれ、社会的な病理現象が広がりつつあるのです。

 

〈上司や男性に反発する人は、父親に反発していた人〉

 上司となかなかうまくいかない人や、男性にすぐ反発してしまう女性の場合、そのほとんどが父親との関係に問題があったと考えることができます。

 権力的な父親を見ながら、いつも心の中で反発していたわけですから、かつての父親と同じような権力的にふるまう人を見ると、生理的に反発してしまうのです。体制や国家の権力姿勢を許せないといって共産主義運動に走る青年を調べてみると、そのような家庭環境の中で育っていることが多いのです。

 両親の仲が悪く、浮気等の問題が具体的になる場合、子供は心の中でどちらかの親を軽蔑するようになり、結婚や夫婦の愛を信じられなくなってしまいます。
 そのような家庭で育った女性の場合、男性に対して無意識のうちに嫌悪感をもって向かうようになりますから、男性との関係がスムーズにいかずに恋愛や結婚に失敗してしまうことが多くなってしまいます。

 

 〈非行やノイローゼは、母親が潔癖すぎて甘えられなかった場合に多い〉

  家庭の中で母親が母親らしくない場合、たとえば父親が弱すぎてそのため母親が一家の主人のようだったり、性格が潔癖すぎて子供が甘えることができなかった場合等には、淋しさから非行やノイローゼ等の問題が生じやすくなります。

 本人の意志力が強い時には、母親への愛の恨みや反発が他人への暴力となり非行となりますが、意志力が弱い時には自分の内にこもるようになり、心がその緊張に耐えられなくなり、ノイローゼとなるのです。

 母親に虐げられて小さくなっている父親を眺めている息子は、父親をばかにしながらも同じ男性としての無念の思いを受け継ぐようになり、母親への反発はそうとうなものとなります。

 いずれにせよ一人の人間の人格は、両親から善きにつけ悪しきにつけ、大きな影響を受けており、親が苦しみ悩んだ課題をほぼ同じように歩んでいるのではないでしょうか。

 親が人間関係に難しい人の場合、子も人間関係で悩み、浮気や男女問題があると同じように結婚生活がうまくいかず、金銭にルーズな親だと子も金銭問題で悩むようになるのです。

 きりっとして節目のある人は父親の良き影響を受けている人であり、温かい思いやりのある人は母親の良き影響を受けている人と言えるのではないでしょうか。

 
〈家庭で祖父母、両親、兄弟との情関係を結ぶことの大切さ〉

  両親との関係が人格の根に当たるとすれば、家庭内での人間関係も、幹となり枝となる重要な要素です。

 昔から長男やひとりっ子の性格について語られてきたように、兄弟が何人いるかは性格に大きな影響を与えます。男性からみれば、姉や妹がいれば思春期になっても女性に自然に接することができますし、兄弟が多ければ小さい頃から人と接することの難しさを身をもって学んでいくことができます。

 祖父母がいれば、老人を尊敬しその知恵を学ぶことを覚えますから、社会人となってからも自分の祖父母と同じような年代の老人を大切にし、同時に老人からも愛されます。

 人当たりが柔らかで、誰からも好かれる人は、祖父母、両親、多くの兄弟たちの中で大切にされ愛されて育ってきたという場合が多く、いつもむっつりしていて、人の善意を信じようとせず誰からも嫌われる人は、愛情のない冷たい家庭で育っており、当の本人も自分のそういう性格に苦しんでいる場合が多いのです。

 愛されなかったという愛の恨みは、誰もが心の奥底に持っていますが、この心の歪みがどの程度のものかをまず自分で正確につかんでおかなければなりません。父親像に歪みがあるのか母親像に歪みがあるのかをチェックし、心の修正作業に取り組むのです。

 ずれてきた出発点は両親にあるのですから、まず自分が得られなかった父親像母親像を具体的に探し求めなければなりません。それは過去の聖人や偉人と呼ばれる人よりも、身近な叔父さんや尊敬する教師の方が、愛情が具体的になりますから望ましいでしょう。

 そしてその代理となった父親と母親を通して過去の心の恨みを解放する作業を繰り返す、信頼し相談し報告し喜んでもらうことにより、心が少しずつ生まれ変わっていくのです。

 心に秘めた問題を相談できる人がいるというだけで、ほとんどすべての問題が解決されてしまいます。誰か聞いてくれる人がいて、その人に心の悩みを打ち明けることによって、閉ざされた心が解放されていくのです。

 ですから、どれだけ親身になって自分のことを聞いてもらったか、その回数が多ければ多いほど、心は溶かされ解放されていきます。

 それは薄皮をはがすように少しずつではありますが、何年かの間の中で必ず解決されることを確信してください。

 その相談相手が、親友とか妻とか夫になる場合もあるかもしれませんが、いずれにしろ心の歪みを修正し、愛されることよりも愛することを願う人間となり、家庭を築き子供を育てていくならば、溢れんばかりの愛の力が家庭から社会へと広がり、世界は確実に生まれ変わっていくことになるはずです。

 

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第8章:子育てによって自分も育つ

第8章 子育てによって自分も育つ

 

〈人生という愛の道場の中で、愛は成長し人格に丸みを与える〉

  憧れとしての初恋、性欲との闘い、失恋、ようやく見つけたベターハーフ、しっとりと落ち着いた夫婦の愛、子供を持って知る親の愛、そしてそこから広がる隣人愛。

 愛は年を経るに従って熟し、味わいを持つようになってきます。空想的なうわついたものから、地に足の着いた具体的なものとなるのです。

 人間社会は一人では生きていけません。多くの人の中で上下左右と関係を結び仕事をしていくことによって、自分の問題が分かるようになってきます。

 人生という愛の道場の中で愛は成長し、人格に丸みを与えるようになります。

 子育てを通して深められる愛情について考えてみたいと思います。まだ恋人募集中で子育てとは縁がないという方もいらっしゃるでしょうが、やがて誰もが経験していく世界。

私のささやかな体験が、その時の心構えの参考になれば幸いです。

 

〈胎教が見直されている今、本当の胎教とは〉

 近年、胎教が見直されるようになり、婦人雑誌には胎教についての様々な記事が紹介されています。怒ると血液が酸性になって胎教に良くない、胎児は母体の外界の音を聞くことができるからショックを与えるような音は避け、きれいな音楽をいつも聴くようにしたら良い、食事はカルシウムの多いものを食べという具合に、懇切丁寧に書かれています。

 たしかに胎教も大切ですが、その前にもっと大切なことが忘れられてはいないでしょうか。

 あなたはご自分が、両親の期待の中で望まれて生まれてきたのと、妊娠してしまったから仕方なくという場合のどちらが良いでしょうか。もちろん誰もが両親に望まれて生を受けるほうが良いに決まっています。

 それでは、妊娠の原因とも言える性行為の時に、新しい生命のことを意識している人が一体どのくらいいるでしょうか?

 もちろん性は子供を作ることだけではなく、喜びがあり夫婦の愛情を深めてくれますが、

妊娠の可能性がある日については、夫婦ともはっきり分かるはずです。ポルノ映画に刺激され酒の勢いで肉体関係を持ち、その結果妊娠してしまったのでは、新しい生命にあまりにも不遜ではないでしょうか。

 このことは親となった時、自分の子供に対して胸を張って親らしくふるまうことのできる精神的ポイントの一つですが、精神面だけでなく具体的にどんな子供ができるかという結果となって現れるように思われます。

 私は遺伝学者でもありませんし、たくさんのデータを持っているというわけでもありません。しかし、夫婦そろって立派な子供を生もうと意識して性関係を結びその結果妊娠するのと、性欲に押されその結果妊娠してしまったというのでは、子供の質が絶対違うはずです。そして夫婦の精神的ボルテージが高ければ高いほど、良い子供が生まれるに違いありません。

 私は学生時代に愛と性の問題でずいぶん悩んでいましたが、やがて人生の師と仰ぐ先生
と出会い、その先生の授業の中で「ある夫婦に子供が生まれる時、その夫婦からはいつ生まれたら最も良いという時がある。そして、夫婦はその運命の糸に引き寄せられて愛情が高まり、自然に一つになって妊娠するのである」という言葉を聞いて、そうだ、そうに違いないと確信し、ようやく愛と性の問題の方向性を知ることができました。

 農作物や競争馬の世界では、血統が非常に重要なものとされています。そのため競って優秀な血統を求めますが、このことは人間についてもまったく同じことです。ヨーロッパでは今なお貴族と呼ばれる人たちが存在していますが、彼らは血統的にも選ばれた人たちだけあって、頭脳も優れ、才能もあり体格も優れていると言われています。労働者と貴族がケンカすると、必ず貴族が勝つというぐらいなのです。

 血統というと、自分の努力ではどうにもならないように思えます たしかに、先祖譲りの顔かたちや才能はどうにもなりませんが、心の持ち方や人への思いやりなどは、夫婦の妊娠前の愛情の世界、精神世界がそのまま伝えられていくような気がしてならないのです。

 親の愛情を十分に受けている子供の顔はいきいきしていて美しく、才能も自由に伸びていきます。
 人間の心の核心は愛情であり、愛情溢れた人生こそ幸福な人生そのものです。

 他人への恨みの心を持たず、すべてに感謝し、人の幸せを祈る心を持ち続けるなら、そ

の愛のエネルギーは確実に子供の心に伝えられ、親より優れた心の持ち主となります。これこそ真の人間革命であり、胎教は母親だけの課題ではなく夫にも重大な責任があり、妊娠の何年も前から既に始まっていると言うことができるのです。


〈子供によって親が変えられる〉
 自分の子供が生まれるようになってからの、夫婦に起きる変化を考えてみましょう。

 女性の場合は、妊娠してから出産までの全期間、常に自分のお腹の中に子供を宿しているわけですから、母親としての意識と自覚を強く持つようになります。

 そして親となった喜びと自信が顔つきまで変えてしまいます。「女は弱し、されど母は強し」という言葉もありますが、女性が最も美しく輝く時は、母親となった時と言えるのではないでしょうか。

 これに対して男性の場合、自分のお腹を痛めているわけではありませんから、初めて自分の子供を抱きかかえた時、それなりの感動はありますが、母親ほどの愛着がなく「ふうん、これが自分の子供か。しわくちゃで、お猿さんみたいだな」というくらいの場合が多いのではないでしょうか。
 そんな男性でも、夜中に眠い目をこすりながら2、3時間おきにミルクを飲ませたり、おむつを取り替えたりするなかで、だんだんと愛情がわいてくるようになります。
 仕事で疲れていても子供のむじゃきな顔を見れば疲れも吹きとんでしまいます。熱でも出ようものならさあ大変、徹夜で看病し医学書を調べておろおろします。

 「子を持って知る親の恩」とはよく聞かされましたが、わがままで手の掛かる子供の姿を見ていると、かつての自分のことが思い出され、改めて親への感謝の念が湧いてきます。
 子供が生まれてからは子供が一家の主人公となり、親は自分の時間もとれずに子供の召使のようになってしまいます。

 子供を寝かせるために、親は自分の夕食も後回しにして添い寝をし、昼間の疲れからそのまま一緒に寝てしまい、夜中に空腹のために目が覚めたというような話は、どこの親でも持っています。

 そんな苦労があっても、子供が少しずつ成長し言葉を話すようになって利口になってくれば親は大喜びです。それぞれの長所が子供に現れていると、それを挙げて喜び、二人にない長所を見つけては、結婚と出産の神秘に感動の声をあげます。
 何よりも嬉しいのは、子供が親に向けてくる全面的な信頼のまなざしです。もちろん高学年になると、批判的になってくるということもあるのですが、幼児期のまなざしには親はメロメロになってしまいます。

 私の人生の中で、私を百パーセント信じてくれた存在に初めて出会い、そのまなざしがとても眩しく、とても感動したことを今もはっきり覚えています。「この信頼に応えなければならない。この子のために一生懸命働こう」そのように決意させられました。と同時に、私はこの子のように百パーセント、人を信じたことがあっただろうかと反省させられました。信じきるなら、必ず人は動くことを我が子は私に教えてくれたのです。

 それまで私は、人の欠点ばかり目について心から人を愛せないという、自分でもいやな性格の持ち主でした。

 ところが悪戦苦闘しながら子供を育ててみると、自分の子供にも様々な欠点があり、親としてはその子供が大きくなった時、未来の結婚相手や社会から何とか温かく受け入れて欲しいという、祈りにも似た気持ちになってくるのです。

 そうすると今まで気になっていた人の欠点も、「この人も大変だな、親も心配していることだろう」という具合に、自分の子供とダブって見えてくるようになり、批判的な目では見ないようになってきました。

 動物の場合は生まれ落ちるとすぐに一人前になりますが、人間の場合は一人前となるのに二十年もかかります。しかも肉体だけでなく、精神的にも世に出しても恥ずかしくないだけの立派な大人とするためには、親の大変な努力が必要とされます。
 万物の霊長と言われる人間だけが、なぜこんなに子育てに苦労しなければならないのでしょうか。結論から言うならば、子育てはいかに人を愛せるようになるかという訓練の場だからであり、子育てとは自分を育てることでもあると言えるのではないでしょうか。
 子育てを通して自分を育て、親の愛情に通じるようになって、自分の子供以外の人にも愛をもって臨んでいくことができるようになれば、社会はおのずと良くなっていくに違いありません。

 子供は自分たち夫婦に与えられた天からの授かりもの。自分たち以上の可能性を秘めているわけですから、自分の子供だと思って育てるわけにはいきません。
 天の王子と王女を育てるようなつもりで、自分たち以上の人間にしなければならない、そう思って奮闘している毎日です。

 

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第7章:幸福な夫婦となるために

第7章 幸福な夫婦となるために

 

〈相手を好きになる努力なくして、愛情は芽生えない〉

  夫婦としての共同生活の中で、互いを思いやるという本当の意味での愛情が芽生えるようになり、少しずつ夫婦らしくなっていくわけですが、ほっておいてもそうなるというわけではありません。

 相手を好きになる努力が必要であり、自分の意志力で自分の情の世界を作り変えることができるかどうかが、いい夫婦になれるかどうかの分かれ目なのです。

 実際の夫婦生活の中では、恋愛時代には気にならなかったことがどうしても許せなかったり、自分が先に謝らなければならないと分かっていても、なかなかそうできなかったりというように、自分の感情をもてあますことがしばしばあります。そんな時にやさしい異性が目の前に現れたら、自分たちの結婚は間違っていたのではないかとさえ考えてしまいます。「結婚は人生の墓場である」という表現はこの辺のことを指していると思われます。


〈最愛の人であると思って努力する〉

  数多くの夫婦を見てきたあるマリッジカウンセラーが、「いい夫婦になるためには相手が自分にとって最愛の人であると思い込むことである」と語っていましたが、思い込む、つまり自己演出できるかどうかが重要なポイントです。

 ほとんどの人は、感性や感情はそのままのものであって、コントロールできないと思っているようですが、実は自己演出によってかなり変えることができるものです。

 有名なミュージカル映画雨に唄えば」の中に「悲しいから泣くんじゃないよ。泣くから悲しくなるんだよ」という言葉が出てきますが、皆さんもきっと同じような経験があるのではないでしょうか。

 「あんな人とは口もききたくない」と思えばますます嫌いになってしまいますし、「少し頼りないけど、根はやさしくて私にぴったりの人なの」と思うようにすると、だんだん慕わしくなってきますから不思議です。「この人は私の最愛の人」と自分自身に言い聞かせ、その言葉を絶えず口に出し、そのように行動することによって、愛情が沸きあがってくるようになるのです。

 そんなのは自分の心を偽っているのであって、私は自分の心に正直でいたいという人もいらっしゃると思いますが、恋こがれてようやく結婚した相手に、「今はあなたを愛していると思っていますが、世の中にはあなたよりももっと私にふさわしい人がいるかもしれません。だからあなたが私の最愛の人かどうかは分からないのです」と言ったらどうなるでしょうか。

 夫婦そろって始めて完成した一個の人格となる

 プラトンの「饗宴」の中に、男女は昔一つの体だったため、引き裂かれた相手を捜し求め続けていると書かれています。また聖書には、男性のあばら骨から女性を造ったとも書かれているように、大人になった男女が結ばれるということは、それによって初めて完成した一人の人格ができあがるということを意味しています。

 男性は自分にはないやさしさを女性に求めますし、女性は自分にはないたくましさや実行力を男性に求めます。お互いの足らないところを補い合うべく、本質的に求めあうようになっているのではないでしょうか。

 自分は優れているのに相手は欠点だらけではないかと思っていると悲劇が始まります。

自分の欠点をありのままに認めることができる心があれば、相手をも素直に受けとめられるようになります。

 そして、愛し合う夫婦はやがて相手の人格の影響を知らず知らずのうちに受け、性格まで変わっていくようになります。
 似た者夫婦というように、それはまるで兄弟のようでもあり、最も自分に近い友人ともなってくれます。

 社会生活の荒波の中で、否定され孤立した時でも、この世でたった一人自分を信じ理解解してくれる人がいたとしたら、どんなに心強いことでしょうか。それは何物にも勝る援助であり、お互いが生涯にわたっての良き理解者となれるよう努力したいものです。

 
〈時には甘えさせ時には甘える、自由な愛の関係が必要〉

  考えてみれば、結婚後の人生の方がはるかに長いわけですが、そこには喜びと共にそれ以上の悲しみや苦しみが待ち受けています。その時、お互いにどのように対処したらいいのでしょうか。

 夫が会社の仕事の中で苦しくなったりつらくなったりすると、会社が終わった後にその心を癒やしてくれるやさしい母親のような存在を求めるようになります。立派な肩書きを持ち、多くの人から尊敬されているような人であっても、時にはすべてを忘れて子供のようになり、母親の懐で甘えたいという欲求を持っているものです。

 反対に妻の立場から考えても、しっかりと自分を守り支えてくれる父親のようなたくましい男性像を夫に求めます。これは常に父親だけ母親だけというのではなく、お互いの心の必要に応じて自由に変化するのが理想的です。ある時は親となって相手を甘えさせ守り、ある時は反対に子供となって相手に甘える。この愛の回路ができあがると、そこから愛情が無限に溢れでてくるのが分かります。愛は自分たちの心の中にはないのに、どこからか大きな熱い思いが心に感じられ、その思いに反応して相手への愛情が湧き上がってくるのです。

 こうなると二人が二人ではなくなり、四人五人それ以上の力となってきます。そして、二人の間に湧き上がってきた愛情を周りの人々と分かち合いたいと思うようになってきます。情的なゆとりが生まれ、潤いが溢れでるようになります。仲の良い夫婦が持つ、安定感や力強さ、輝くばかりの喜びの表情は、そこから生まれてくるのです。

 不幸な夫婦というのは、この親ー子、子ー親という愛情の歯車が合わない夫婦であり、

どちらか一方が、常に権力的な親であったり溺愛的な親であったり、あるいは逆に二人とも愛情に飢えている子供だったりする場合に生じます。

 こうなると、二人でいることがむしろ苦痛となり、仕事に取り組む気力や生きる力さえそがれてきます。

 世の亭主族の浮気が、必ずしも美貌のOL嬢の色香に惑わされてのものではなく、むしろあんな美人でしっかり者の奥さんがいるのに、何故わざわざ風采の上がらない女性の所に通うのだろうというような例の方が多いという事実が、愛情という問題の難しさを物語っています。

 幸福な夫婦になるか不幸な夫婦になるかは、結婚以前に人の気持ちが分かる人間となっているか、他のために尽くすことのできる人間になっているかという人間としての努力をしているかどうかにかかっているということを、独身者はよくよく覚えていて下さい。

 結婚したら幸福になれるかもしれない、何かいいことがあるかもしれないというような安易なものではありません。

 

 〈すてきな男女となるための努力が必要〉

  男性の性質を表す言葉に、「釣った魚に餌はやらない」というものがあり、女性は結婚すると安心してふてぶてしくなるとよく言われます。いずれにしろ、どちらも独身時代には良き配偶者を得るための努力を真剣に行い、相手から良く思われようと様々な努力をしたはずです。

 しかし、結婚後は安心感もあってか会話も少なくなり、相手に良く思われるための努力がなおざりになってしまいがちです。

 夫婦生活といっても現実の生活的なことが多くなり、ロマンチックなムードとは程遠くなってしまいます。

 そこで、たまには二人で映画に行ったり食事をしたりして、すてきな男女となるための努力を積極的にする必要があります。

 夫婦が仲良くなることで、マイナスとなるものは何もないからです。

 結婚当初、私は妻からよく叱られました。仕事が終わって家に帰ってくると、テレビを見ながらボケッとしているというのです。食事をしながらも、仕事のことばかり考えて深刻な顔をして黙っていますから、妻はいたたまれなくなって、「仕事しているのは男性ばかりじゃありません。男性は仕事だけしていればそれで済むんだからいいわね」と、ぴしゃりとやられてしまいました。

 私にも言い分はあったのですが、どう考えても私が悪いのははっきりしており、それからは注意するようになりました。

 夫も妻もそれぞれ日常の事情圏が違うため、物事の認識や人間としての成長に違いが生じやすく、そのずれを埋めるための努力が必要となります。

 

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第6章:結婚、それは別の人格を認めること

第6章   結婚、それは別の人格を認めること

 

〈愛を忘れ性の快楽を追求した現代人への性の反撃〉

  愛さえあればという肉体の”自由恋愛”を主張する人たちには、根本的な盲点が隠されています。それは、そのような主張が、男であり女であるといった立場に立っている時だけのものであり、夫となり妻となり親となった時には、全く違ってくるということです。

 つまり、一人の男性としては、自分の欲望をそのまま肯定してほしいが、自分の妻や子供が浮気したり遊び回ったりしてもらっては困るというのが実情であり、進んでいるのでもロマンチックでもなく、エゴイズムそのものなのです。

 現在、未成年の性体験が増加し、中学生や高校生の何割かが体験者であると新聞や雑誌に発表されています。しかし、一体そのうちの何人が性体験を豊かなものとして感じているでしょうか。おそらくそのうちのほとんどが、「なんだこんなものだったのか」と失望したのではないでしょうか。そして、大人になり本当の意味で人を愛することができるようになって結婚した時、若い時に興味本意で安易に肉体関係を結んだことを悔いているのではないでしょうか。

 しかし、ごくまれに例外的な男女がいます。それは、最初から愛より性を求める人たちで、まさに血筋そのものが異性をむさぼり求めるというものです。

 彼らは本能的に、同族人種になる可能性のある人を捜し出し、その輪を広げていこうとしています。


「愛してるならいいじゃないか」


「みんなやっているよ」

 

 彼らの言葉には繁殖力があり、免疫のない青少年の心を惑わせています。

 しばらく前、離婚率の増加が騒がれたことがありましたが、次に問題になると言われているのが、若い主婦の浮気です。

 これは、結婚前に多くの男性と性体験のある今どきの女性が、結婚後、夫との性生活に満足できず浮気するというもので、四千人の主婦にアンケートを採ったところ、その五割が夫以外の男性と関係があるというショッキングな報告がされています。これこそ、愛を忘れ、性の快楽のみを追求した現代人への、性の反撃とも言える深刻な現象ではないでしょうか。

 
〈結婚の条件は精神的に大人になること〉

  結婚に至る動機はいろいろありますが、注意しておかなければならないことがあります。

それはよくありがちなことですが、「一人だと淋しくて、結婚したら何かいいことがあるのではないか」という受け身の姿勢では、何も得られないということです。

 淋しさや孤独を感じるのは、あなただけではなく相手も同じです。あなたが淋しく慰めてもらいたいと思っている時、相手もそうだったとしたらどうなるのでしょうか。

 お互いに愛されたいと思っているのに、自分の心の中に溢れ出る愛の思いがない。これこそ多くの青年たちが感じている現代の悲劇ではないでしょうか。

 結婚相手の条件として、学歴や収入や身長などが言われますが、実は最も重要な条件が、愛という角度から見て、精神的に大人になっているかどうかという点なのです。淋しい、愛されたいという思いは子供の願望であり、これを克服して他の人を愛せるようになった人、他の人のことを優先して考えることができるようになった人が大人なのです。

 しかし現実は、肉体的には大人でも精神的には子供のままの人がなんと多いことでしょうか。子供同士が結婚して子供を生んでいく。そのため、自分の子供をどう教育したらいいか分からないという親が増えています。

 その結果、親から愛され大切にされたという実感を持たない子供たちがどんどん増えていく。当然のこととして、人を信じられない、愛せないという情緒不安定で攻撃的な子供たちが増えているのです。

結婚とは、精神的に大人になった男女が、自分の全存在を懸けて相手の幸福のために尽くし、生涯を共にして共通の理想を実現していこうとする時、最も確固としたものになるのであり、愛されたいと思っているうちは、まだ結婚する資格がないということなのです。

愛されたいから結婚するのではなく、自分の存在で相手を支えてあげたい、幸福にしてあげたいという動機なくして、結婚は幸福なものとはならないのです。


〈衝突や和解を繰り返し、夫婦らしくなっていく〉

  結婚してみて誰もが最初に痛感することは、相手の性格が違うのは当然のことですが、物事の認識の仕方、判断の仕方、行動様式があまりにも違うということです。

 それまで学校や会社で異性の友達もいたわけですし、それなりに分かっていたつもりだったのですが、実際に生活が始まってみると驚くことばかりです。

 私の新婚1年目は、毎日が驚きと感動の日々でした。

 例を挙げてみましょう。仕事から帰って居間でくつろいでいる時、家内は「お茶、飲みますか?」と尋ねてきます。私はこの言葉を聞くといつもムッとして、「亭主がお茶を飲みたくなるタイミングくらい、女房の方で研究して、黙っていてもサッと出してくれたらいいじゃないか」と思っていました。

 ある日、たまりかねてそう言ってみると、「黙っていたら分からないでしょう。あなたがひとこと言ってくれればそれでいいだけじゃないの」という返事が返ってきました。要するに人間のタイプが、不言実行型と有言実行型の違いだったわけです。

 一番大変だったのが、料理の好みの違いでした。私は農村出身の人間ですので、漬物や煮物といった田舎風の料理を好みます。ところが家内は都市部出身で、そのためかスパゲッティやフライ、サラダといった洋食風の料理ばかり作るのです。

 まさかそんなもの嫌いだとも言えず、おいしそうに食べました。家内は亭主の料理の好みが分からずに自信を喪失。

 やがて一計を案じた家内は、私の郷里の母親に電話して私の好みを調べあげ、田舎風の料理を作るようになりました。今ではふきのとうミソを作ったり、ぬかみそ漬けを作ったりして、料理の好みもほとんど同じになったのです。

 このように、それまでの生活環境がまるで違っていた二人が共同生活を始めるのですから、摩擦が生じるのが当然です。その対立を解決していく過程の中で、夫婦の信頼と愛が培われていくのではないでしょうか。

 よく夫婦の倦怠期だとか、性格の違いによる離婚だとかいう話がありますが、私は倦怠期というのは嘘で、恋愛感情というそれこそ”幻”から覚め、相手を本当の意味で愛していくための重要な期間であると理解しています。

 「性格が違いすぎる」などと言って、その場から逃避しようとする人は、何度離婚しても幸運をつかむのは難しいと言えるのではないでしょうか。

 

〈結婚生活は、人を愛せるようになるための最高の訓練〉

  結婚というものを人間理解という観点から見るならば、自分とまったく別の人格の存在を認めることができるようになるということだと思います。

 自分だったらこうするのに、とても理解できないという衝突が何度も繰り返されます。お互いに口もききたくないという状態が続き、やがてどちらからともなく和解する。これを半年、1年と繰り返すうちに、お互いの性格や癖がだんだん分かるようになり、夫婦らしくなっていくのです。

 独身時代には、いやな友人や上司とは付き合わなくても済みますが、結婚した相手とはそうはいきません。

 お互いの平和と幸福のために、じっと耐えることも必要です。人を愛することは、こんなに大変だったかと思い知らされ、結婚前の恋愛感情は、こうあって欲しいという自分の願望、つまり理想の女性像を夢見ていたのであり、現実の相手を愛していたのではなかったというのがよく分かります。

 結婚生活の中で家内を通じて、私は女性というものが少しずつ理解できるようになり、自分自身の人間理解の幅が広くなったのではないかと思っています。

 結婚当初、家内は私の欠点を実によく見抜いていて、そのことを時々鋭く指摘してきました。自分でもそうではないかと思っていただけにショックであり、自分の欠点を改めて再認識せざるを得ませんでした。

 これはお互いに言えることであり、その言い方とタイミングが問題ですが、夫婦という関係は人間として成長するための重要な関係なのです。

 心理学者のE、フロムも「もし私が、真にひとりの人を愛するならば、私はすべての人を愛し、世界の人を愛し、生命を愛するのである」と語っていますが、結婚生活は、まさに人を愛せるようになるための、最高の訓練の場と言えるでしょう。

 

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第5章:性の貧しい認識が青春を暗黒へ

第5章 性の貧しい認識が青春を暗黒へ

 

〈思春期最大の課題は、性欲の問題をいかに克服するか〉

  女性には、なかなか分からない男性の苦しみは何かといったら、仕事や人間関係を挙げることができますが、すべての男性に共通の課題は性欲の問題であると言ってもいいでしょう。

 どんなに理性で抑えていても、ある環境の中に巻き込まれると、それ以上に強い愛欲や性欲の力に流され、今さえ良ければこの先どうなってもいいと奈落の底へまっしぐらとなってしまうのが、悲しい人間の姿だったのです。

 性欲のコントロールについては、男性の誰もが自信がないというのが正直のところではないでしょうか。

  私自身も、心の奥底にうごめく性欲の問題に人一倍悩み、この問題をどのように克服したらいいか必死に考えました。愛欲や性欲は身を滅ぼすほどの恐ろしい力があるというのは直感的に分かりますから、そのような環境には絶対に近づかないようにしようと思いながらも、誘惑されてみたい、自分も体験して大人の仲間入りをしたいという矛盾した心でフラフラしていたのが青春時代だったと思います。

 やがて結婚して子供を持つようになり、さまざまな人生経験を重ねるうちに、私の心の中の一番危険な要素であった愛欲と性欲が、徐々に落ち着いてきて変化し、今、違った角度から見れるようになってきたのではないかと思います。

 そして、その視点を、思春期に誰かに教えてもらっていたら、あんなに苦しむ必要もなかったのではないか。まだまだ未熟な私の考えであっても、それを手掛かりにしてもらったら、青年はもっと創造的、建設的になれるのではないかというのが、この原稿を書く一つの動機となっているのです。

 性欲を取り上げると、決まって持ち出されるのが心理学者フロイトの名前と、性欲はすべての欲望の根底にあるものであり、このエネルギーを昇華することにより、偉大な芸術や文化、スポーツ等が生まれるというくだりですが、私はこの理論には疑問を持っています。

  確かにその通りかも知れませんが、芸術にも文化にもスポーツにも大して興味のない大多数の人間は、性欲とどう闘ったらいいのか何の説明もないからです。

 性のエネルギーを昇華するといっても、爆発的なエネルギーをもてあましている男性にとっては、スポーツや芸術に意識を集中できるものではありません。プロスポーツの有名選手の多くが、半ば公然と多くの女性と肉体関係を持っているという事実は、現実はそんなに理論通りにはいかないことを如実に証明しています。

 そこで煩悩多き私が考えついた、性欲との闘い方をアドバイスいたします。

 

〈男性の性欲に踏みにじられた女性の涙の歴史〉

   1.性欲によって生じた人類歴史の女性の悲劇を考えよう

  戦争や革命というような、理性の歯止めがきかなくなった時、必ずそこには征服者による大量の強姦があり、悲劇が引き起こされました。

 まず、そのような光景を思い浮かべてみましょう。家は焼かれ、女子供の泣き叫ぶ声と逃げ惑う姿。侵略者の兵士たちによる強姦。

 強姦されている女性があなたの母親だったら、姉だったら、妹だったらどうしますか?

あなたの心に悲しみと怒りの思いがこみあげてきませんか?その怒りを、自分の性欲の思いにぶつけましょう。

 人類の歴史は裏を返せば、男性の性欲に踏みにじられた女性の涙の歴史だったのです。

その涙と悲しみに直面するなら、うわついた性欲の思いなどは吹っとんでしまうはずです。

 

 2.性欲の結果生じる妊娠や新しい生命について考えよう

  どのように避妊に注意しても、妊娠の可能性はあります。まして自分の性欲を満たすことしか考えていない男性は、そこまで気が回りません。

たとえ相手の女性があなたの愛している人だったとしても、今妊娠して彼女はかまわないでしょうか?

 学業を続けながらの子育ては、なかなかできるものではありません。精神的にもまだ未熟で、親が反対したりして、二人を取り巻く周囲の心理的環境も悪かったら、胎内の新しい生命に良かろうはずがありません。

 中絶すればいいさと安易に考える方もいらっしゃるかも知れません。しかし、中絶は実に危険な手術であり、女性の肉体にとっては出産と全く同じことなのです。

 中絶を何度も繰り返すと、今度は子供が欲しい時に産めない体になってしまう可能性があります。

 肉体的な苦痛とダメージもさることながら、女性にとっては新しい生命を闇に葬ってしまったという大きな精神的ダメージとなります。

 あなたの気まぐれな性欲の結果、愛する彼女は苦痛と、新しい生命を殺してしまわなければならないという罪の意識で泣きながら中絶手術を受けなければならないのです。

 妊娠3ヶ月の胎児は、もう人間の形をしています。4ヶ月からは死産届けが必要で、小さい木の箱に入れられ火葬にされるのです。時には出てきた後、ヒクヒクと動くことすらあります。その胎児の姿を思い浮かべてみて下さい。


〈生命誕生の瞬間に知る男女の役割と性の尊厳性の認識〉

  私は以前から出産シーンを見たいと思っていましたが、幸いに私の二番目の子供の出産に立ち会うことができました。病院から連絡を受けて分娩室に入ると、家内は汗をびっしょりかきながら、大きく腹式呼吸をしていました。両手はしっかりとベッドを握り締め苦痛に耐えようとしています。足は固定され出産時の作業がしやすいようになっています。

 痛々しい家内の姿に、一瞬息をのむ思いでした。しかし、こうして激痛に耐えているのも、自分の子供を生むためなんだと思うと、家内がいとおしく、手をしっかりと握り締めて「がんばって」と声をかけざるを得ませんでした。

 祈ることしかできないもどかしさの中で、女性の偉大さと男性のいいかげんさを痛感させられました。

 やがて出産。なんだかしわくちゃで小さな赤ん坊ですが、二人の愛の行為から具体的な生命が誕生したという生命の神秘に打たれしばらくは声も出ませんでした。性は簡単に考えてはいけない、これは神聖で重要なものなんだ、いつも今日の感動を持ち続けるようにしよう、そう感じたのです。

 

 〈家族と異性への真実の愛が、性欲をコントロールする〉

  性欲や性の喜びは、それ自体が目的ではなく生命の伝達という大自然のサイクルの中で、

男女に与えられた二次的なものではないでしょうか。もちろん、夫婦がより愛情を深めあうことができるようにという目的もあるわけですが、若い男女は妊娠のメカニズムをしっかりと学び、生命現象の中にある男女の役割とその尊厳性を認識すべきではないでしょうか?

 

 3.最愛の女性にはどんなふうに接するか考えよう

  1、2の考え方を教訓的反省的なものとすれば、この考え方は創造的と言えるでしょう。

つまり、その人があなたの最愛の女性だったとしたら、自分がどのような愛の表現をとるだろうかを考えてみるということです。

 前回で述べましたように、男性と女性とでは性についての見詰め方が根本的に違います。

また肉体的感性も違うため、男性は自分のペースではなく女性のペースに合わせて愛の行為に入っていかなければなりません。男性の性急な行動は、女性を不安がらせ傷つけてしまうことになります。そしてその結果、性生活に喜びどころか嫌悪感しか感じられなくなってしまうということになりかねません。

 性生活を喜びに満ちたものにするためには、男性が自分の性欲を相手への愛によってコントロールできるようにならなければならないでしょうね。

 
 4、両親や愛する妻や子供たちの顔を思い浮かべよう

 両親や愛する妻や子供たち、そこには心をあやしく引きつける力はないかも知れませんが信頼と安らぎの世界があります。何といっても家庭が自分の基礎であり出発点なのです。 仕事に疲れて帰った時、帰りを待ちわびて飛びついてくる子供の姿のためにも頑張らなければと思いますし、無条件で親を信じ甘えてくる姿に、親としての愛がこみ上げてきます。子供によって心に潤いを与えられ、生きる力を与えられます。

性の誘惑があった時、家庭の団欒を思い浮かべ両親や妻子への愛を思い起こしてみて下さい。その愛に勝るものは何もないのではないでしょうか?

 

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第4章:性教育は人間教育の骨格

第4章 性教育は人間教育の骨格

 

〈愛と性が分離する男性、同一視する女性のすれ違い〉

 性をどう見つめたらいいのか?

 これは人間としてどう生きるか、ということと同じ意味の最も本質的な問題です。

 ですから性教育とは、生物学の教育ではなく実は人間教育の骨格でなければなりません。

そこでまず最初に、男性と女性の性の違いについて考えてみたいと思います。

 一般に男性は、中学から高校の頃にかけて性欲が非常に強くなり、女性の体に興味を持ち性体験にあこがれるようになります。

  既に性体験のある友達は「大人」であり「英雄」であり、自分も早く性体験をして大人の仲間入りをしたいと思っています。

 女性の体を思い浮かべては淫らな妄想にふけり、女性であれば誰でもいいからと性交欲で頭が一杯になります。

 性欲は十六歳の頃が一番強く、それに伴う頭脳の発達はさらに十年かかると言われています。つまり理想と愛情で性欲を、ある程度コントロールできるようになるのは、二十代の後半になってからのことです。

  特定の女性を意識するようになると、相手を美化し理想化して考えるようになりますから、その清らかな相手に、自分のどす黒い性欲を向けるのは罪悪に感じられ、極力、自分も清らかな思いを持とうと努力するようになります。

 もちろん個人差がありますから、自分の好きな女性には清い思いを持ちながら、性欲はプロの女性で処理するという、割り切った男性もかなりの割合で存在しています。

 いずれにせよ、男性は愛情と性欲がバラバラでも当然という存在であることを、若い女性はよくよく覚えておく必要があります。

 精神異常者や麻薬による犯罪が多いアメリカでは、強姦が多く、若い女性は護身術を習い、服装や一人歩き、アパート住まい等にも相当な神経を使っていると言われています。

どんなに無害に見えるおとなしい男性でも、密室で一対一になったら性を意識するようになります。環境には十分注意して下さい。

 

〈誇張された性描写によって歪められた認識〉

  これに対して女性は、愛情と性欲が一つであり、愛する人以外とは性関係を結びたくないというようになっています。

 女性が男性と大きく違う点は、肉体関係はそのまま妊娠や出産という肉体的苦痛につながるということです。そのため男性と違って保守的にならざるを得ないのです。「お互いの責任において肉体関係を結んだのだから、人からとやかく言われる筋合いはない」と言う男性がいますが、その結果生じてくる妊娠や出産について、実際のところ男性は全く責任を取ることができないものです。

 性欲を満たすことに無我夢中になっている時、男性はその結果としての妊娠や新しい生命については、全く考えてないというのが現状ではないでしょうか。

 予期せぬ妊娠となった時、ほとんどの男性は逃げていくか中絶を迫ります。これこそ、目的は女性の肉体にしかなく、相手の心を愛していないことの何よりの証拠にほかなりません。

  女性からすれば、男性が肉体を求めてくるのは愛している証拠であると考えるわけですが、男性からすれば、愛とは関係なく自分の性欲を満たすために、遊びやすい女性を求めただけのことなのです。

 性は本来人間に与えられた最も貴い世界。その性を動物以下のものにしないよう、特に若い女性の賢い知恵が必要とされています。

 結婚してから初めて分かったことの一つに、それまで性について考えていたことが、実際はずいぶん違うものだったということがあります。

それは、多分未婚のほとんどの男性が誤解していることではないかと思うのですが、「性体験をすれば素晴らしい快楽が得られるのではないか」という認識です。

 毎日のようにテレビや映画や週刊誌で性体験のシーンばかり見せられると、性関係を結べば、それだけで陶酔感に浸ることができるのではないかと思い込むのも無理からぬことですが、実際は必ずしもそんなものではありません。

 それらの性描写には多くの誇張と嘘が含まれています。私の家内は「女性が映画を作るなら絶対あんな描写にはならない。男性が女性に対する自分の願望を持って映画を作るからああなるのよ」と憤慨していましたが、性産業は太古の時代から性の快楽を強調し、多くの男性を惑わしては暴利をむさぼってきたのです。

 聖書によると、エデンの園でエバは蛇に誘惑され、禁断の木の実を取って食べることによって堕落したと書かれています。禁断の木の実は、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」とエバの目には見えたのですが、現代の若者にも性は全く同じように見えているのではないでしょうか。

 肉体的だけでなく精神的にも大人になり、相手を思いやるという愛が心の中に宿るようになって夫婦となれば、性は禁断の木の実ではなく、お互いの愛を深め子孫を繁栄させるための祝福の木の実となります。

  しかし時期がまだ来ていないのに、快楽という結果だけを求めると、それを得られないばかりか、苦痛と苦い後悔を味あわなければならなくなってしまうのです。

 

〈人格を無視した性体験は、孤独の淵に陥る〉

  若い男女の性体験は、戸惑いや恥じらいの方が大きく、また、それぞれの肉体の反応の仕方が違うために、なかなか一致を見ることが難しいものです。

 性の意識は、人間の心の深みにあるものであり、心がさまざまな紆余曲折の路程を経て傷だらけになっているように、精神的影響を非常に受けやすく、簡単に解放されるものではありません。

 ですから、生涯を共にする相手かどうかも分からないというような不安な気持ちの中で、

どうして喜びを得ることができるでしょうか。

 所詮、人間の心は肉体の刺激によって感動を得られるのではなく、真善美愛といった精神的要素によってしか喜びを得られないものです。

 性体験それ自体から快楽を得ようとする人は、そこに何の人格的交流も見いだすことができなくなり、むなしさと孤独の淵に追い込まれるようになります。それでもなお快楽を求めようという人はアブノーマルな性的嗜好に走って行くようになるのです。

 異性を貴重な人格、魂として見ずに肉体としか見ない人の性体験は、一時的な快楽はあっても感動のない深みのないものとなってしまいます。本来、もっと素晴らしいものである性体験を本当の意味で知ることができないようになってしまいます。

 そして、男と女なんてこんなものさと嘯くようになり、人間不信に陥ってしまいます。

これが、心の中に他人への思いやりの心、愛がまだ熟していない未完全の時に性体験を持ってはいけない重大な理由なのです。

 無責任な週刊誌や一部のマスコミは、性の解放を唱え、お互いが愛し合っているのだったら、性関係はあたりまえと主張しています。もちろん性がタブー視されるのも、政略結婚のための道具とされるのも良くありませんが、人間としての個の確立がされていない時に、欲望と興味本意で性体験をするのは絶対にさけて下さい。

 性体験したから大人になるのではなく、最も利己的である性欲をコントロールし、深い愛情と信頼に結ばれた永遠の夫婦として性体験をすることにより、初めて大人になることができるのです。

 

〈純潔を守り抜いた後に得られる夫婦愛の世界〉

  性は、生涯の伴侶となった夫婦が、お互いの愛を高めるための人間理解の一つの手段であり、二人の信頼と努力の積み重ねによって、初めて性の喜びを感じることができるようになるのです。

 それは結婚してから何年もかかるのであり、夫婦が身も心も一つになれたという体験は、私の体験ではそういつもあるものではありません。男性が自分の性欲を動機として性関係を求めると結果はみじめなもので、相手が本当の意味で幸福になれないのに、どうして自分に喜びがあるでしょうか。

 性は恐ろしいほどに精神的なものであり、夫婦の道は実に奥が深い、これが私の実感です。夫婦生活の中で、妻を通して私は自分の性欲がより本質的な愛に溶かされていくのを知りました。

 性の喜びは、いわゆる肉体的テクニックではなく、夫婦がより人間として成長し愛し合っていく中で感じられるようになるものであり、信頼と忍耐と努力の積み重ねなくしては得られません。

 このことをはっきりと認識し、性の誘惑に惑わされないように自分の心と闘って下さい。

純潔を守り抜いた後に得られる夫婦愛の世界は、もっともっと素晴らしいものであるからです。

 

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